昭和五十一年十二月十九日朝のご理解
松永享四郎
ご理解第十七節
「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」
今、合楽で云われる、合楽理念と云うのは、真の信心を愈々身に着けて行く所謂、根本理念でもある訳です、ですから、これからは、只ひたすらに、理念に基づいた行き方を身に着けて行きさえすれば良いと云う事になる訳です。
ですから、そこまでの信心が頂けてまいりましたから、例えばどう云う事があっても、もうこれでおしまい、もうこれで、神の綱が切れた、もう神様にも見放されたと云う様な事は、有りえません。
例えば、そう云う時ほど、その事を大事にしていく、そのすべてと云うか、信心を身に付けて行くからです、そう云う意味でどうでも一つ合楽理念をマスタ-すると、昨夜お月次祭に申しました様に、栄四郎の例、岩井千恵子さんの例、兎に角ああ云う行き方、受け方が、合楽理念の基になっておるのだと判って、あれが身に付いてまいりましたら、信心も有難いものに、楽しいものに、そして、愈々限り無く、金光太郎先生じゃないですけど、信心を頂いていなかったら、一生の損、信心を頂いてなかったら、魂の世界に入ると、もっと損だと云う様な事がはっきり判って来る。
ですから、信心は、放せるものでもなければ、もう神様にも、仏様にも見放されたと云う様な事は絶対に有りえない、そう云う意味合いにでも、愈々観念の上にも、頭で判って行くと云う、合楽理念から、日々の生活の中に、例えば昨日、栄四郎が話しとりました様に、確かにそのそこのところが、頭では判って居るつもりだけれども、自分の事になって来ると、判っていない事にびっくりする。
友達などが、いろいろ相談に来る、そりゃ、お前神愛じゃないかと、それは、親先生がいつも成り行きを頂いて行けと仰有るじゃないかと、そりゃ、かえっておかげじゃないかと、自分は判りきっておるから、人には伝えるけれども、自分のそういう上に例えば、問題が起きた時に、やっぱり問題になっておるところを見ると、如何に、云わば、合楽理念が血肉になっていないかと云う事を、感じると云う事を云っております。
そこで、なら、観念の上には、これは神愛だと判っておる、神様のみ働きだと判っておる、ほんとは、むしろお礼を云わねばならない事に、自分の心は悩みでいっぱいであり、愈々問題を生んで行くかの様に云う。
そこで、今、合楽では大祓信行の徹底と云う事を云われるが、確かに大祓信行を一心不乱に、大祓を苦しい事の、自分の心の中に、問題が問題で無くなるまで、神様へ心を向けさせて頂くと、心の神様が生き生きとして見える、けれども、ご神前を離れると、又、その不安がつのって来る、問題が問題になって来る。
そこで、今、合楽で云われるところの、為そうと思えば、子供でも成せれる事を、今までおろそかにして来ておった事柄を、沢山な事柄を、実意丁寧、これが神信心だと思うて、それを云うなら、為そうと思えば成せる事なんだ、そこを、徹底して行く内に、問題が問題でなくなって来る。
これは、血肉になって行くまでの一つの過程である、そう云う信心が一つの洗脳と云うか、思い込みと云うか、段々出来て来る様になると、問題即おかげと、頂く時に、もうすでに問題が無くなるのである、おかげとお礼が申し上げられる。
岩井千恵子先生が、もうとても、私は教会修行は出来ません、とても、私ぐらいの者で、金光様の先生なんて、とても出来るとは思われない、と真からその事を思うた、そこで、お取次ぎを頂いた、そして、そのお取次ぎを私がさせて頂いたら、もう云わば愚にもつかない事を心気病んでいる訳です。
千恵子さんあんた馬鹿じゃなかかねと、私が云う、これ程の云うならば、苦しいもう自分の胸にはばからん位の苦しさを、お取次ぎを頂いとるのに、私が馬鹿じゃなかかと、それこそ、神様に向かうよりほかになか、一生懸命神様へ、それこそ、腹立ち紛れであったかも知れん。
そしたら、親先生が何か腹を立てて、ポ-ンと硝子の様な物を、皆さんに投げられたところを頂いた、もうそれが、テンデンバラバラにそれが割れてしまった、その割れてるのを、金光様金光様で、その割れた破片を一つ一つ拾うて行っておる内に、それこそ、込み上げて来る様な、有難さが判ったと云うのです。
そして、もう一月位たちましょうか、たってから、考えて見ると本当にあの位の事で挫折しようとした、親先生の一喝を頂いて、おかげ頂いたと、こう云う訳です、だから、お互いに問題にならない事、そんなに心配せんでも良い様な事で、心配をして、もう私は駄目だ、もうとてもと云う様な事がございます。
そこにね、結局合楽理念が、本当に自分の物に、血に肉になっていないのだ、そう云う例えば、栄四郎の事、千恵子さんの事、それを繰り返し繰り返し、私共が、日常生活の上にそれを頂き、そして、表して行っておる内にその事が大変楽しい事、神様がこの様にして、力を付けて下さる、光を付けてくださるんだと、云う様な事が、実感として、頂ける様になる訳で。
例えば、痛ければ痛いで有難い、苦しいけれども、云わば勿体無いと云う様な、心の状態が開けて本当にそれが、血に肉になる、そこから、私は本当の更なる信心、日に日に更と云う信心は、そう云う事だと思う、そこから、更な心で、神様と交流する、おかげをキャッチして行く事ができる、と云う訳なんです。
だから、合楽では、理念を本当にマスタ-させて頂いたら、神の綱が切れると云う様な事は、先ず無いのです、これは、少し意味が違うけれども、まあ云うならば、一つの関わり合いの綱とでも申しましょうかね。
私は、最近束縛を受けてはならないと、それは、束縛を受けなければならない時には、云うなら、我が儘勝手な事をしておると、やはり束縛を受ける事も、有難いけど、段々おかげ頂いて、合楽の信心がです、まあ、云うならば完璧の一線上に出て、これを真っ直ぐ歩いてさえ行けば、これを自分の物にしてさえ行けば、自分の云うなら、血肉にしてさえ行けば、もう大丈夫と云う迷いのない道をはっきり、ここに、示して頂いたのですから、それを束縛されたんでは、かなわない。
だからね、束縛されると云う時には、束縛された方が良い時代があるのです、過去に於いていろんな、教会としても、束縛を受けた時代がありました。
あれはしてはいかん、こげな事云うてはいかん、例えば、最近の此処で、ご大祭の時には、神様に奉上するお祝詞は、とてもとても、もう何年か前だったら、もうそれこそ、私が、こう云う事を祝詞に書きたいと云うても、親先生が許されませんでした。
例えば、この四神様のご大祭なんかの時に、四神様が九州の大恩人ならば、、三代金光様は、合楽教会の大恩人だと、それは、三代金光様のおかげで、合楽が開けたんだと云う事を、祝詞に中にそれを詠って頂こうと、親先生にお願いした時に、結局、それは、そうのと云いよんなさったけれども、それは、絶対云われませんでした。 もうどこまでも、これは、久留米教会の祝詞じゃろうか、善導寺の祝詞じゃろうかと、云ったものになってしまって、もう実も何も無いものを、只、空読みしとるだけのもので、感動も何も無いお祝詞であった。
ところが、もうそれこそ、誰に憚る事もなしに、なら、私の信心を自由に創造的に、堂々と発表と云うか、祝詞が声高らかに、上げられると云う事が、もう、束縛を感じてないからです、例え束縛があったにしてもです、その事はもう全然問題にしないで済むだけの本当のところに出たとこなのです、ね。
それでも、大祭の翌る日に、総代さん方と一緒に親教会にお礼に出らせて貰いました、その時には何でもなかった様です、その日が親教会の月次祭でした、それで、宜しくお願いしますと参りましたら、えらい風が悪い、どうしてじゃろうかと思うたら、お祭りの時に、あんた方には、今度、ブラジル布教をするげなな、お届けもせんなあげな事してから、それは、もうえらい剣幕で当たられた訳です。
私が、お祝詞の中にですね、ブラジル布教の事をうたってました、勿論、私が愈々決定的なものになって、今度のは、合楽から出すのではなくて、本部派遣と云う事になっているのです、ですから、愈々具体的、なら、ここで、修行生が、修行に行く時でも、また帰って来てでも、親教会にお届けしてからしか、しませんけれども、本当云うたら、合楽の場合は日々がお日参り、日々が合楽全体の事を、お取次ぎ頂いとるのですから、問題になってなならない筈です。
言葉に出すか出さないか、そう云う事は問題にならないのです、毎日、今は、1日の事を、合楽教会の上に於いてもです、親教会の上に於いてもです、又は、あちらのご造営の借金済むまではと、思うておりますから、そのご造営の事もです、私が必ず毎日お届けするんです、けど、その中に、私の考えは入っとるのですけれども、だから、もう幹三郎が、もう参らんと云う、それで、昨日から、栄四郎が代わりに参りおかげ頂いとります。
そりゃ、ほんとに、兄弟達が皆、私の方はそろうですかね、それが、一生懸命になるのです、親教会に対しては、そして、一生懸命になって、一生懸命あちらでも可愛いがられます、親教会、そして、何かに、チョッとぶっかった時に、それこそ、血の気が引いてしまう様な事が起こって来ると、もうそれっきり参らん様になるです、本当に惜しいと思うです、けど、直ぐその後栄四郎が受けて、それから、栄四郎が参る様になりました。
その事を、私、神様にお願いさして頂いとりましたら、こうやって、括られておりました、それが、腐った縄で括られておるところでした、だから、私が一寸力を入れたらプツッと切れる様な、云う様なところです、それは、束縛の様であって、実は束縛ではない事が判るでしょうが、こうやって、括られておるけれども、その縄が腐った様な縄ですから、私がこうやって、一寸手を動かしただけで、切れそうな感じです、だから、これは括られるでもなければ、束縛を受けるでもない。
一昨日、教務所から、電話が掛かって来ました、これも、えらい剣幕で掛かって来たらしい、と云うのは、今度の4月のご大祭の事で、4月に今度は1日にお参りする事になる、で、久留米の係りが、花畑の先生ですから、掛かって来た、こうちょいと私の方は困りました、私の方は1日は、親先生の誕生日であったり、特別の云うならば、大祭に準ずる様な行事が合楽ではありますから、1日はうちは困ります、と云うたところが、なら教務所にそう云うときましょう、お宅の良か日にお参りして下さいと云う事であったから、そのつもりでおった。
ところが、教務所の次長先生から、勝彦宛てに、えらい剣幕で、「あんたんところがそげん自由にするなら、自由な事するなら、これから、教務所では構わん、だから、あんたんところは、あんたんところで参ってくれ」「そりゃ一寸待って下さい、親先生に相談してから、又ご返事しますから」と云う事で電話を切ったそうです。
けど、本当に若先生もそれを感じたと云うのです、私もそれを感じました、ほんに願ってもないことを、向こうから自由にしてくれと、ほんと勝彦さん間違いなかろうがの、私が、2.3日前合楽は束縛を受けんで済む、束縛を受けんならん時には、自由勝手なあれがある時です、なら、合楽の信心がもう、信心の上に於いて完璧の域に入った、これを真っ直に行きさえすれば良いのですから、誰に憚る事なしに、それを只ひたすらに進んでさえすれば良いのですから、束縛を受けたら困るんです、何故かと云うと、合楽の信心は、今云うならば大変な隔たりを感じます、今の金光教から。
ですから、金光教から、合楽は違う事を云うとるとか、違う事をしておると云う風に見えるでしょうけれども、それは、より本当の事を、只判らんで云っておるだけですから、ですから、これから束縛を受ける何物も、その事もいらない、只これを進めて行けば良いと云うところに入ったんですから。
私は、この3.4日前10年祭の委員会がございましたですかね、その時に、私は、ここで頂いとった事を控えとりました、「そう云う様な事を芯にして、その中に自由で創造的な自由と云うのは、只、我が儘勝手でなくて、自分に責任を持って、責任を感じての自由でなからなければならない、そう云う意味合いで、これからは、合楽は誰の束縛も受けない」と云う様な事を書いてあるのです、「だから、勝彦さん、お父さんが合楽は束縛を受けないで済むと云う」
と云う様に表現しておったのが、早速そう云う風にして、教務所からでも、云うならばこれは、ご本部参拝に限ってですけども、あちらの自由にならなくっても。……
実に困るんです、うちは1日が困るし、10日が困るし、13日も困るんですよね、実際、だから今度は、合楽は7日なら7日と云う日にお参りさせて頂いたら、然も向こうの方から、あげん云いよるなら、もうそげな事するなら構わん、だから、なら、構うて貰わんでんよかけんで、まあそげな風には云わんでよかけれども。
兎に角それなら、私の方は、私の方で、それがね、10人20人の団体なら良か訳ですけど、合楽の場合は、もう150人からお参りするので、教務所としても困られる訳ですよね、150人がパッと抜けると。
それで、電話をこちらから入れました、そしたら、次長が出られてから、昨日一寸強く云い過ぎられた訳ですね、だから、「えらいもう本当にどうも、ならそうして下さいと、これからも、ご本部に団体で参りになられる時には、連絡は取って下さい、こちらで、斡旋だけはさせて頂きますから」と、えらい円満な話であったと云う事です。
おかげで、合楽は自由に然も一番良い時に、然も小口団体で行くと、料金も大変安くなるのですよ、だから、願ってもないおかげでしょうが、もう今まで例えば、大事な13日会であるとかね、10日の月次祭とか、1日とか、愈々、でけんとです、行きにくいとです、今まで、4月からでしたから、1日と云うのがある、これは、1日早くなった訳である、そんな訳でです、云うならば束縛を受けなくて、それも、神様が束縛を受ける時にはね、一つの重圧を、上から抑えつけられる時にはね、抑えられる時が、良い時です。
やっぱり、そして、その不自由な中に、本当の事が判って行く、なら、今の合楽は、抑えられる事も、束縛も、受ける必要がないほどしに、云うなら完璧の域に入ったと云われる合楽理念の信心、しかし、そこには、人が異質な信心の人がみると、違うかの様に見えるけれどもです、云うならば、これが本当だと云う事を、堂々と誰に憚る事もなく、束縛を受けずに、重圧を受けずに、進んで行けれる信心と云うものが、感じられます、判ります。
そこで、愈々もってです、皆さんが、合楽理念の信心を身につけて行くことに、もう愈々性根打ち込んで行ったら良いと云う事になります。
今日は、私は神の綱が切れたと云うたが、今日は少し意味が違いますが、むしろ切れておかげになる、云うなら、束縛の綱を、もう云うならば、例え括られとっても、一寸力めばプツッと切って行けれる様な、または、束縛を受け、合楽は何日に参って貰わんならんと云う様な、窮屈な困った事ではなくて、なら、合楽の一番都合の良い時にお参りをさせて頂けて、しかも、旅費も幾らか安く付くと云う様なおかげを、云うならば、向こうの方からと云う事は、神様がそう仕向けさせて貰う様なおかげ、そう云う綱の云わば切れ方と云うのは、有り難い綱が切れる事になるのです。
いつまでも、こう猿回しじゃないけれども、その綱を持って、こう踊らされる事ではない事になった、けれども、綱を緩めたら、
猿が云う事は聞かん、例えば、猿回しの云う様にならないから、綱が付けてあるのであって、合楽の場合はもう自由に、云うならば綱の必要を神様が感じられなくなった、もうこの行き方で行きさえすれば、良いんだぞと、云う事を、神様が明示して下さった。
そして、これは、合楽独特と云う事ではありません、合楽の在り方が、全教の上にも、その事を云うなら、この頃ご本部で頂いた様にです、合楽の信心がその中に入って、それを拡めて行くと云う行き方になるほどしに、完璧な信心を云うなら、名教たる所以と云うものを、はっきり合楽で打ち出して行く事が出来る。
只、それが云うておるだけではいけん、聞いておるだけではいけん、その信心を皆さんが、各自に頂いて、昨日のお説教に申しました様に、所謂、萬光園であります、一つ一つ一人が夫れ夫れの光を頂いて、それが、萬の光が、また、愈々大きく拡がって行く様な、おかげを頂かねば、ならないと思います。
と云う程に、合楽の信心は、或る意味に於いての絶対の一線上に出た訳ですから、その辺のところを、いつまでも、ぐずぐずしとったんでは、やはり、今までと同じです、この完璧と云われる信心に入って進んで、より一段と信心を進めて行くおかげを頂かねばならんと云う事に、なりますですね、どうぞ。
今日は、神の綱が切れたと云う事は、初めに申しました様に、難儀な時、困った時、ああ自分は駄目だと云う様な時に、神の綱は切れるんだけれども、そう云う神の綱が切れたと云うほどしの、とき程、合楽理念と云うものは、私達を見事に支えて呉れるだけでなくて、それが、愈々、ああ本当に、おかげで、その事のおかげでと、お礼が云えれる様な信心が頂けた時に、合楽理念が血肉になった、なって行く時だと云う風に頂かなければならないですね。
どうぞ。